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青春を駆け抜けた横田年昭&リオアルマ&麻里圭子 [魅惑と秘密]

          青春を駆け抜けた横田年昭&リオアルマ&麻里圭子

 

 

 

この写真は、グループとしてデビュー前に、晩秋の豊島園にて週刊誌のグラビアの撮影

この写真が、横田年昭とリオアルマと圭子のジョイント後初めてのグラビア写真でした!!

(週刊誌の何処だったか!?忘れてしまいました。)

 

 

 

「月影のランデブー」の 鳥居ユキ デザインの衣装です!!

週刊明星のグラビアです!!    横田年昭とリオアルマと圭子の

テレビ・ステージでの、振り付けを少しオーバーに!コミカルに!蜜月の時です!! 

 

全学連の事など全く関心が無い、タレントがヘルメットをかぶり、

チョットおしゃれな全学連のモデル!S44年の時代背景が、

良く分かると思います

 

 


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麻里圭子

「月影のランデブー」の作曲をしてくださった、寺岡 真三先生のお宅の、応接間のグランドピアノの前で、この曲を、リオアルマと圭子の合同レッスンは、S43年秋に始まりました。もちろん担当ディレクター深井さんも一緒に、先ずは、譜面を頂き、リオアルマのパートと圭子の歌の部分一緒に歌う部分1時間位かけ、レッスン致しました。そして、イントロの部分から、
寺岡先生が、ピアノを弾き、「ド・ド・ドゥ♪」と圭子とリオが、歌ったトタン、
深井ディレクターが、手を交差させ、最初のダメだしをわずか、歌い出し、何秒かで、出しました。誰が、悪かったか!?それは、圭子が、犯人でした。
何処が、悪いか!?実は、リオアルマとリズムの取り方が、全く違っている事にその時初めて、気付きました。圭子は、凄く焦りました!レコードを今聞いて見ると、実に軽やかに圭子の声が、弾んで楽しげに聞こえますが、
ラテンロックに、リオアルマの全員は、馴染んでおりましたが、肝心の圭子だけが、まるで、リズムに乗り遅れ、リオについて行こうとすればするほど
何故か圭子が、リズムに乗れなく成ってしまいました!!どうしょう!?
助けて~!!心の中で圭子はドンドン孤独になり、涙が、頬を伝い始めました!!(~_~;)つづく
by 麻里圭子 (2007-08-31 21:02) 

麻里圭子

2枚目の画像は、横田年昭・リオアルマ・圭子も、無邪気に、これから、始まる過酷なスケジューも、予期する事無く、皆、青春を想いっきり楽しみ、
希望に燃えておりました!!

今、考えますと、男性6人に囲まれた圭子は、とても幸せだったかも!!
「どんだけぇ~!!」

\(~o~)/つづく
by 麻里圭子 (2007-09-01 16:38) 

麻里圭子

リオアルマのボーカル&パーカッションを担当していた、「月影のランデブー」のジャケットの右、花束を持つ「サミー千葉」さん、しかし圭子は、つい最近まで千葉ちやんを、「サニー千葉」さんとステージでも、メンバー紹介して今年の1月頃まで、圭子の頭の中の千葉ちゃんは、いまだにサニー千葉だったのです!一番驚いたのが、リオアルマのバンマス横田 年昭さんでした。「お圭」メンバー紹介の時まさか、芸名を間違えて紹介していた事に誰も気付いていませんでした!!「ごめんなさい」千葉ちゃん、この方は、ボーカルだったので、何時も圭子が、困った時には、優しく色々な事を教えてくれました。「月影のランデブー」のド・ド・ドゥのラテンロックの乗り方を、泣きながら、何とか、1日で、身に付ける事が、出来ましたのは、千葉ちゃんのおかげでした。寺岡真三先生のお宅を出る頃には、すっかりラテンロックのリズムに、リオアルマに乗り遅れる事無く、滑らかに、歌える様になっておりました。それ以来メンバーの中では、何時でもお兄ちゃんの様に、何でも相談出来る頼もしい、存在になっておりました!!この、レッスンの時、
担当ディレクター深井さんは、新たなる当時としては、画期的な事を、考えていたのです!!えぇ~!!それって凄すぎ~!!(@_@)つづく
by 麻里圭子 (2007-09-01 21:46) 

麻里圭子

この「月影のランデブー」は、中村八大先生が、カバァーしてくださっていて、今も人気が在る曲なのですが、圭子とリオアルマのレッスンの時に、
圭子が、「二人で歩きましょうよ」と歌うと英語で、答える紳士なおじ様の声が、入っておりますが、最初は、英語の部分は全く、予想もしていなかった、出来事で、しかも、当時「オールナイト ニッポン」で、一番人気の、軽妙な、英語を使う「高崎一郎」さんを意図も簡単にレコーディングの時、お呼びして、録音をしたのですが、深井ディレクターが、仕事が出来る方だと思いましたのは、まず、「月影のランデブー」の歌詞を高崎 一郎さんに、渡し、
圭子の、歌に、答える英語の部分を、高崎 一郎さんに、丸投げしたのでした。録音当日まで、どう英語の部分が、入ってくるのか分からず、ボーカルの千葉ちゃんが、一番不安だったと思います。レコーディングの時は、高崎一郎さんで、これから先、全てのテレビ・ステージは、千葉ちゃんが、高崎一郎さんと、同じ様に、軽妙な英語の台詞と歌を、掛け合いで、受け持つ事に、なったのです!!これは、大変な事に成ってきました!!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-02 20:43) 

麻里圭子

まだ築地のビクターのスタジオで、レコーディングは、始まりました。
演奏は、レコーディングの為だけよりすぐれた、各演奏者の方が集まり、リオアルマの中では一人だけ、横田 年昭さんのフルートは、抜群の響きを、またラテンロックを、楽しげに演奏してくださいました。最初は、カラオケを先ず、1時間で、仕上げその後、圭子とリオアルマの歌の録音に入りました。
この時代は、まだ、テープを使っていました。お話が、少しズレますが、S42年は、まだ2チャンネル(カラオケと歌)の1cm位のテープでした。それから、倍々ゲーム的にチャンネルは増えて行きました。S43年頃は、16チャンネル位だったか?、テープの幅も4~5cm位のピンク色でした!!噂に聞いたのですが、築地のスタジオは、ダンプカーが、通ると振動の音が、入ってしまう!?「うそだべぇ~!???」まさに、ファンの皆様が、驚くような、日本のレコード会の「夜明けの時代だったのです!!」つづく
by 麻里圭子 (2007-09-03 21:21) 

麻里圭子

今晩は、今日アップした写真は、豊島園で、撮った時の最後の写真です。
何故か3枚だけ、圭子の手元に残っていた物なのです。まだ、リオアルマとの、グラビアは、カラーの物もありますので、お話に合わせて、アップ致します。

レコーディングは、前もってリオと一緒に、寺岡先生のお家で、レッスンの出来ましたので、思ったよりも、早くOKが、出ましたが、ファンの皆様は、気が付いていらっしゃる方も、いると思いますが、当時は、レジタルでは、無いので、修正しないまま、レコードになって、しまいました。何処だか分かりますか!!一回目の録音の方が、圭子の声にハリが在り良かったのですが、男性と圭子のキィーギリギリの処まで、音域を使ってましたので、確か3コーラス目、編曲が、半音上がり、圭子の声は、ギリギリまで、上がりきり、「ド・ド・ドゥ~♪」と歌いだした所で、圭子の声が、ファルセットの声に微妙に、裏返ってしまいましたが、全体的に何回も聴き直しましたが、最後の決断は、深井ディレクターが、OKを出しました。なるほどと云うくらい、
誰からも指摘を受けたことは、有りませんでしたが、自分自身「月影のランデブー」を聞くと、何時もこの部分に成ると、ドキ!(・。・;と致します。つづく
by 麻里圭子 (2007-09-04 21:01) 

麻里圭子

圭子の30数年前の、「告白」判っちゃいましたか!?「ごめんなさい」
「お許して」「お願い」何故か、プティ・マミの台詞みたいですね!!

圭子とリオアルマの録音OKが、出た頃、高崎 一郎さんが、スタジオ入りいたしました。1~2回出来上がった、「月影のランデブー」を高崎 一郎さんは、聞きながら、ご自分で、創って来た、英語の台詞部分を、マイクの前で、実際に圭子の歌に返事をする様に、英語で、チョット キザに甘く軽やかに、滑らかに、入れ始めました。信じられない速さで、ご自分の、台詞の入れ方、感覚、すべて自然に、決まった様に、圭子は、覚えております。
プロて、凄い!!と思いました。そして、本番へ入りました。もちろん英語の部分は、高崎 一郎さん1人で、スタジオに残りスタッフは、皆、高崎 一郎さんの、この「月影のランデブー」の最終仕上がりを、完璧に完成させる為の期待と、希望で、ミキサールームで、祈る様な気持ちで、見守りました!!
つづく
by 麻里圭子 (2007-09-05 21:19) 

麻里圭子

高崎 一郎さんの声は、軽やかに、英語の台詞を、圭子の歌に答える様に、しかも圭子の歌の声に、合わせて、英語の台詞を意図も簡単に本番テイク1で、決めて頂きました。これは、スタジオの関係者一同感激致しましたのを、今でも圭子は、覚えております。今日も、「月影のランデブー」を先程、CDで効きましたが、30数年前にスキャット&英語が、入っているレコードが、出来た事を、圭子は、今になって、ビクターにそして、今は、亡き
担当ディレクターの深井 静史様に、感謝致します!!そして、この曲に、関わったスタッフの方、全ての方に、感謝致します!!

そして、いよいよジャケット撮りに入り、横田年昭&リオアルマとの、ジョイントは、物凄い勢いで、色々な事が、決まって行きました。「月影のランデブー」は、圭子の衣装が(鳥居 ユキ デザイン)出来上がるのを、待つ事も出来ないくらいの速さで、スタジオ入り致しましたの、実は、この赤い洋服は、
圭子の私服でした。これって本当のお話です!!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-06 21:43) 

麻里圭子

今日アップ致しました、グリーンのパンタロンの衣装が、正式の「月影のランデブー」のスタイルでした。実は、今の時代は、足が細い方が、良い!!
と言われておりますが、写真で見て頂くと良く分かると思いますが、圭子の足が、細すぎて、男性と一緒にステージに立った時、余りにか細く、病人見たいに思えるので、絶対足を見せては、ダメと云う事になったのです!!
そんな、お話は、関係者一同しか知らないお話なので、「あの子絶対に足を見せないのは、もしかして大根足なのかも!?」こんな噂もたち、S44年麻里圭子フォークソングを歌うの中に、「大根足のサンバ」と云うタイトルが
在るのです!!話が、少しそれてしまいました。確かS44年1月発売だったと思いますが、S43年12頃には、リオアルマとのTVは、もう録画で、何本か出演しておりました。それに加え、とんでもないラッキーな、お仕事が、
S43年暮れには、決まりました。出演は、
S44年2月のはじめだったと思いますが、決まりました!!(^_-)-☆つづく
by 麻里圭子 (2007-09-07 21:33) 

星空

ご無沙汰です。麻里さん台風での被害は御座いませんでしたか?
最近気が付いたのですが、テレビ番組で(ランキンの楽園)という番組の中で(月影のランデブーがバックミユージックとして流れておりました。 今回がたまたまかも解りませんが次回も流れていれば毎週流れてるのかも解りません。でも麻里さんのヒット曲で嬉しかったです。 こちらでは懐かしいお話しを聴かせて頂き新しい発見も興味深い内容のものも有りますので楽しみです。 まだまだ私の知らない麻里さんが有るようで楽しみです。

            -星空ー
by 星空 (2007-09-08 20:07) 

麻里圭子

星空様
今晩は、お蔭様で、被害は、全く有りませんでした。
今は、住宅地ですが、S30年代には、小高い山だったそうですので、もしこの地が、水害に遭ったとしたら東京全体が、湖になってしまうと思います!!しかし、普段のお買い物の時は、大変です。往きは、お天気の時は、富士山を見ながら、揺ったりと、歩きながら、坂道を気持ちよく降り、買い物をして、さてと、帰り道は、両手にスーパーの袋を沢山持ち、坂道を登って行く時は、フラットな、所に住みたいと思います!!贅沢を言ったらキリがありません!(*^^)v

「ランキンの楽園」は、見たことが、無いのですが、でも嬉しいです!!
お知らせ頂き有難うございました。何時もブログを見て頂いてありがとうございます。良い休日をお過ごしくださいませ。
麻里圭子
by 麻里圭子 (2007-09-08 20:38) 

麻里圭子

S44年・現在はフジTV 「笑っていいとも」の時間帯は、コント55号の人気番組、「お昼のゴールデンショー」の今週の歌と云う、コーナーが在り、
1週間、月曜日~金曜日まで、5日間毎日、「月影のランデブー」が、歌える事になりました。圭子の記憶の中では、2月の初めだったと、記憶しておりますが、もしかすると、1月の末だったかもしれません!!上り坂の時は、勢いが在り、全ていい方向へ進むものなのですね!!怖いくらいの速さで、色々な事が、決まって行きました。一番大変だった事は、リオアルマと圭子の事務所が、違いお互いに、グループを組む前に、決まっていた仕事を、しながら「月影のランデブー」のキャンペーンをこなし、圭子は、一番大変だったのは、札幌のHBCのラジオ番組を1ヶ月1回~2回行くスケジュールを抱えておりましたので、スポンサーは、全日空でした。デビューして、直に、東京から、ゲストでHBCラジオに出演させて頂いて、面白い子だね!!と言われ、ラッキーな事に、レギュラー番組を札幌に持つ事が出来たのですが、「月影のランデブー」の曲が、だんだん、ヒットして来た時に、
この、札幌に行く時は、夜の番組でしたが、泊まる事は、出来ず、当時夜中に飛ぶ、オーロラと云う飛行機に乗り、日帰りでレギュラーを務めました時は、寝る為に家に帰る時間が無く、東京の羽田空港の駐車場で、車の中で、仮眠を取り、また飛行機に乗り、次の仕事場に移動した事も、多くございました。若かったから、出来たのですね!!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-08 21:37) 

麻里圭子

とにかく、横田年昭とリオアルマとグループ結成した時から、歌手としてのスケジュールが、順調に入り始めました。S44年リオアルマとお正月に
後楽園のアイススケート場で、歌い始め、とても楽しくお仕事できた事を覚えて、おります。ヨコちゃんも、リオも、圭子も新たなる世界を求め、また夢を抱き、一緒にステージに立つだけで、楽しかったのです!!そしてリオアルマも、圭子と、ジョイントする前に、決まっていたスケジュールをこなしながら、「お昼のゴールデンショー」の本番の日を迎えました。実は、圭子は、
「恋のヴェンダ」の時に一度「お昼のゴールデンショー」の今週の歌で、出演させて、頂いておりましたが、ヒット曲には、なりませんでした。しかし、
この、「月影のランデブー」の時は、なんと、1日目の出演が、終わり別のお仕事に、リオアルマと歩いていると、街の、皆様から、「ああ!テレビで見たわ~!」・「ああ!あの子!」と云われる様になっておりました。\(◎o◎)/!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-09 20:06) 

麻里圭子

レコードが、売れるスピードは、驚くほど速かった事を良く覚えております。
ビクターは、5万枚レコードが、当時、売れるとビクターの看板の銅製のワンちゃんが付いた、プレートに、ヒット曲のタイトルと芸名が、記されている、ヒット賞が頂ける事に!この「月影のランデブー」は、発売、30日位で、5万枚突破した事を、覚えております!オリコンのチャートは、ハッキリ何位まで、入ったか確認出来ておりませんが、50位に入った時は、ヨコちゃんも、
リオも圭子も、本当に嬉しかった事を良く覚えております。その頃は、スケジュール表は、真っ黒に書く場所が、無いくらい詰まっておりました。
また、S44年4月から4chのニューヒットスコープのレギュラーの司会が、決まりましたのは、2月の終わりか3月の初めでした。このお仕事は、麻里圭子、単独で、リオアルマとは一緒ではなかったのです!!前にも、コメント致しましたが、相手役の司会者は、黒沢久雄さんでした。この、スタッフの顔合わせに、構成作家として、紹介されました、若き日の、阿久 悠さんと初めて、お逢い致しました。後に「接吻泥棒・悪魔の香水」で、作詩でお世話になりました。くしくも、今日は、阿久 悠先生のしのぶ会が、先程TVのニュースで、紹介されておりました。圭子は、一人、ご冥福祈り、TVの遺影に迎、合掌致しました。圭子は、作詞家の阿久 悠先生では無く、初めてお逢い致しました、構成作家として、元気の良い笑顔が、圭子の心の中に今でも、沢山の想い出が、詰まっております!!そして・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-10 20:01) 

星空

麻里さん今晩は、いつも楽しくコメントを拝見させて頂いております。
>ビクターは、5万枚レコードが、当時、売れるとビクターの看板の銅製のワンちゃんが
そうでしたね。私も1個だけ本物を所有しております。私の記憶では当時2万枚も売れればレコード会社は十分に採算が採れたと聴いております。その時代に麻里さんも若さで一目散に駆け抜けて行ったのですね。 今、B面の(恋の天国)を聴いていますが、本当に二十歳前後の歌手とは思えない色気を感じる楽曲です。私は麻里さんの曲ではトップクラスの佳作だと思っています。
by 星空 (2007-09-10 21:29) 

麻里圭子

星空様
今晩は、星空様のコメント通り、5万枚売れるレコードで、ヒット賞を頂く式典で、受賞者が、余り多く居なかった事に、圭子は、驚きました。
現在は、もっとレコード会社は、大変な事に、なっておりますが、

星空様は、ビクターのヒット賞をお持ちとの事、もしかして、音楽関係のお仕事をしてらっしゃいましたか!?今度、もし良かったら、教えてくださいませ。圭子は、ヒット賞を頂いたのは、「サインはV]と「月影のランデブー」だけなのですが、少なくとも、レコードは、年4枚の・S44年・S45年・S46年までは、平均して年間10万枚以上は、レコードが、売れていました。
この数字は、当時中堅歌手の役目は、果していたと思います!!
この数字が、無ければ年4枚のローティーションで、レコードは発売されなったと思います。圭子も、良く、寝る前に「恋の天国」を聴きます!
何時か星空様の秘密も知りたいです!!
おやすみなさい
麻里圭子
by 麻里圭子 (2007-09-10 23:49) 

麻里圭子

麻里圭子は、歌手として、リオアルマとのグループを単独で、1人歌番組の司会者として、レギュラーを持ちこのほか、ラジオは、リオとグループを組む前から、レギュラーとしてお仕事をしておりましたが、「月影のランデブー」以外の放送関係のお仕事は、圭子一人で、出演しておりました。こんな小さなお互いの、仕事の違いに、だんだん色々な問題が、出て来ておりました。圭子は、リオアルマとのグループ結成前は、一人、移動の時の新幹線、その他の交通機関は、、グリーン車を使わせて、頂いておりましたが、リオとジョイントしてから、一緒のお仕事の時は、普通車を使う様に、プロダクションから、言い渡されました。これは、当たり前の事なのですが、寝る間の無い、スケジュールでの、移動にとても、疲れた事を、覚えております。全て、リオアルマの事務所に従いました。最初にグループの
お仕事の大変さが、分かりましたのは、結成して2ヶ月目でした!
ほろ苦い思い出です!!(;O;)つづく
by 麻里圭子 (2007-09-11 20:22) 

麻里圭子

S44年4月から、ニューヒットスコープは、始まりました。
確か水曜日の19時から、30分番組で、ヒット曲を歌うトップスターと又、
歌の間に「コント」を入れた創りで、朝10時から夜8~9時頃まで、麹町の
4chのスタジオで、丁寧に時間を掛けVTRを撮って行きました。麹町のスタジオが、一杯の時は、生田スタジオでVTR撮りを致しました事を良く覚えております。スタートは、とてもラッキーな、数字を取りました。この時間帯で、
17%の視聴率を取ったのです!!一番喜んだのは、当時ディレクターだった、池田 文雄さんでした。圭子と黒沢久雄さんは、ポカァーンとしておりました。視聴率より司会のお仕事の重さの方が、重圧になっておりましたので、でも、スタッフの皆様とお祝いの飲み会に良くご一緒致しました。
もう、その頃は、リオアルマとの曲、2曲目「裸足のままで」はレコーディングは、確か終っていました。しかし、発売の日は、「月影のランデブー」のレコードの動きを担当ディレクター深井さんは、見ておりました。そして圭子は、「麻里圭子 フォークソングを歌う」のレコーディングに入り、夜中は、ビクターのスタジオに入っておりました。圭子は、ただ、前を見て、走り続けました。(-_-;)つづく
by 麻里圭子 (2007-09-12 21:05) 

麻里圭子

今晩は、今日アップ致しました、画像は圭子の手元に残った、たった1枚の
リオアルマと仲良く、当時の振り付け通り、しかもカラーのグラビアです!!今は、有楽町駅の斜め前の「マリオン」当時は、日劇が、在りました。浅草には、国際劇場が在り、舞台は、とても広く「月影のランデブー」は、大きな舞台にピッタリ、ハマル振り付けを致しました。誰の????
実は、圭子が殆どの曲に合わせ、振り付けを付けました。それを、日劇に出ましたのは、S44年2月だったと思いますが、「西田佐知子ショー」に、出させて頂き、舞台の真ん中に、大きなお月様が、輝きそのセットの前で、
圭子とリオのボーカル「サミー千葉チャン」と左右に人差し指をド・ド・ドュと
リズムに合わせ振りながら、舞台一杯に使い、コミカルに、段々、圭子と千葉ちゃんが、真ん中に戻り、今日アップした、グラビアの様に、歌いました。
舞台の動きは、演出家が、何時もより大きな動きを、付けてくださいました。グラビアの写真は、TVの時の振り付けを少しだけ、寄り気味に、写って
おります。リオアルマも圭子も、とても幸せな時だったと思います。(^^♪
麻里圭子
by 麻里圭子 (2007-09-13 21:11) 

麻里圭子

横田年昭とリオアルマとの、良い思いでも沢山あります。地方公演行った時は、必ずヨコチャンとリオと圭子は、名物のお食事を食べに行ったり、夜、お仕事が終った後、圭子は、お酒は飲めないのに、コークハイは、甘くて
飲めましたが、睡眠不足と疲れていたので、体調を悪くしてしまって、嘔吐してしまった時、リオの皆様は、介抱してくださいました。<m(__)m>

一番想い出に残っている、京都の南禅寺の湯豆腐を皆で、食べに行った時は、確かまだ、寒さが残っている頃で、芸能界のお仕事って、いいかも!?
とメンバー全員が、思った一瞬だったと思います。たまたまお仕事で、行った京都のわずか5時間の自由時間をフルに使い、京都を観光致しました。
こんな穏かな幸せな時が、在った事も全て青春の1ページとして、圭子は、大事に今も大切な想い出になっております!!(^_-)-☆
by 麻里圭子 (2007-09-14 20:59) 

麻里圭子

確か、S44年5月だったと思いますが、急に沖縄公演が、2日間決まりました。とは云っても、ヨコちゃんと、リオアルマと圭子と司会の方で、1時間30分のショーが、決まってしまいましたが、麻里圭子にとっては、初めての
経験で、しかも沖縄はまだ、日本に返還されて無い時代でした。急遽パスポートを取り、まるで、遠いい外国へ、行く様な、ドンちゃん騒ぎで沖縄に着きましたが、何故か司会の、方が飛行機に乗り遅れ司会が、いないまま1回目の昼の部は、幕を開ける事に、成ってしまいました。こんなの在り~!!
\(◎o◎)/!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-15 23:24) 

麻里圭子

初めての、麻里圭子と横田年昭とリオアルマの看板を背負っての沖縄公演でした。どう考えても、1時間30分の舞台を司会ナシで務めるのは、これは、ハッキリ言って、出たこ勝負でした。
何とかしなくちゃ(・。・;・・・とりあえず、何時ものステージの様に進めていくと、マネージャーが、もっとおしゃべりで時間を持たせろ!!の合図!?
無理です!!とりあえずヨコちゃんとリオアルマの、素晴らしい演奏をお聞き頂き、しかも少し長めに、その間に圭子は、衣装を変えて何とか乗り切りましたが、大変なステージに成ってしまいました。お蔭様で、お客さまは、
在る宗教団体でしたので、客席は、2日空席は、全く無い状態でした。しかし、この沖縄公演は、圭子にとっては、この時に、見て頂いた、お客様の中に、何人か、それから5年後位、グアム島・ハワイ・アンカレッジ・の観光客のショップの店員に、突然声を掛けられ、圭子は、芸能界から、姿を消した後でしたが、「麻里圭子さんですよね!」えぇ~!?ビックリしていると、
沖縄公演見ました。と言われた事が、何回か有りました。そうですよね、
沖縄の方は、英語が話せるので、外国で、お仕事をしている方が、多いいと云う事を、その時初めて知りました。でも・・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-16 20:53) 

麻里圭子

S44年の沖縄は、まだ日本に返還される前で、各外国製品が、沢山並び、安く買えた事を覚えております。圭子が、所属する、プロダクションは、
圭子のお小遣いとして、「20万」を同行した、営業専門のマネージャーから、「これ社長から」と言って渡されました。当時の20万は、OLのお給料の10ヶ月分でした。圭子は、ありがたく頂き、金無垢の腕時計・香水・その他、沢山お買い物が、出来ました。(^_-)-☆

夜の部から、司会の落語家の方が、到着致しました。確か、夢八さんだったと思いますが、(間違っていましたら、お許しください)ステージは、スムーズに何時もの、リオと圭子の、思いっきり楽しく、力一杯ステージを務める事が、出来ました。そのままホテルに帰って寝れば良いのに、マネージャーとリオと圭子と現地の案内人と夜の街に!!沖縄料理に、クラブに
寝る時間が、もったいなくって星も綺麗だった事を良く覚えております。
ホテルに帰ったのが、次の日の午前1時頃だったと思います。
シャワーを浴び、バクスイ!!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-17 20:30) 

麻里圭子

2日目の昼の部のステージが、終わり夜の部の始まる時間までの、お休み時間を使い、「ひめゆりの塔」へ全員で、行きお花を捧げて来ました。
しかし、S44年の頃は、今の様に綺麗に聖地として祭られていた訳では、
無く、本当に現地の方が、大切に守っているだけで、素朴でここが、「ひめゆりの塔」と言われた時は、ただ呆然と致しました。今は、素晴らしく人々が、沢山訪れてあの素朴さが、逆に懐かしい想いも致しますが・・・・

そして、最後のステージを終わり、また夜の街を彷徨いました。
その時に、泡盛を少し頂きましたが、凄く青臭く感じましたが、最近泡盛を
飲みましたが、実に癖の無い、爽やかなお酒でした。ヤッパ~子供だったのかな~!?その日・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-18 21:18) 

麻里圭子

この日も、次の日の午前1時頃まで、沖縄の夜を楽しみました。
帰りの飛行機は、午後だったと思います。ホテルに帰り、シャワー浴び、
リオのお部屋に電話をして、寝る前に、全員圭子のお部屋に集まり、お疲れ様会を、初めてメンバー、一同揃って、圭子は、初めての素顔で、
乾杯を致しました。「オケイ・色気ないね~!」て、言われてしまいました。
でも楽しい思い出です!!
初めての外国の旅行は、「返還前の沖縄」だった事は、今思うと、ブッチャケ大笑いです!!でもすっかり海外旅行をした様な顔をして、お土産を山ほど買い東京に帰ってまいりましたが、お土産が、足りなくなり、S44年頃は、外国のタバコが、高かったので、日本で買い、お土産です!!と持っていった事を良く覚えております。しかし、「月影のランデブー」は、実数
7万5千枚のプレスで、止まった事を確認して、担当ディレクター深井さんは、
次の曲「裸足のままで」を6月に発売に決まった事を、告げられました。
これは、Aランクの宣伝費を掛け、初版確か2万枚プレスから、始まったと思います。もし・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-19 20:16) 

麻里圭子

「裸足のままで」は現在でも、名曲と言われておりますが、S44年当時では、ハイブローな、曲と言われておりました。リオとジョイントをして、2曲目で、ビクター、プロダクション、全ての関係者の方が、「月影のランデブー」をもう、ワン プッシューする事を、諦めて「裸足のままで」に掛ける事に、なりました。宣伝費は、テレビスポット・Tシャツ・トヨタのクラウンのイメージソングにして頂き、東京から大阪まで、白いクラウンで、東京築地署から交通安全キャンペーンで、大阪まで行く事も、決まり物凄い勢いで、全てが決まって行きました。そして、「お昼のゴールデンショーの今週の歌」も、また出させて頂ける事も、決まりました。圭子とリオアルマは、毎日決められたスケジュールをこなして、行くことに一生懸命になっておりました。誰も文句は言わず、前向きに足並みを揃えて最高に幸せな時でした!!しかし・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-21 20:14) 

麻里圭子

この頃は、睡眠時間は、移動の乗り物、各楽屋の休憩時間に30分でも確りと、何処でも寝れる、術を覚えました。したがって、合計6時間~8時間睡眠をとっている事に、変に安心して、仕事終わりに、良く六本木の夜に、お食事に行ったり、その頃流行っていた、ディスコ(今は、クラブ)などに行って、遊んでおりました。そんな無理な生活を、神様の警告だと、思う様な事件が、起こりました。現在でも、残っている歌手だったら誰でも一度は、出演してみたい番組、フジTVの「ミュジックフェア」の番組のカメリハが、終わり本番まで、1時間前に、大変な事が、圭子に起きてしまいました!!
(T_T)・(@_@)!!助けて~!!つづく
by 麻里圭子 (2007-09-22 20:26) 

麻里圭子

このお話は、前に少しだけ致しましたが、詳しくお伝えしたいと思います。
当時フジTVは、お台場では無く、新宿の確か河田町に在りました。
お化粧室が、地下に在り、1階階段で、地下に降りて行く時、リオアルマと、冗談を言いながら階段を降りて4~5段目で、圭子の足は、勢い付けて
全く、次の段を踏み外し、足は空を切り、身体は飛び込み状態になり、
「真っ逆さまに、落ちてディザイヤー♪」!!本当に身体が、飛んだのです!!普通階段落ちは、お尻から落ちる物なのに、この身体が、飛んだ時の瞬間の事を今でも思い出す事が在ります。とっさに、父から習っていた、
柔道の技の、受身で、左手を着地の時に、先に着け、顔頬をかすり傷とあごの真ん中1cmを切り壁に頭をぶつける事だけは、避けられました。とにかく、局内の方たちが、騒ぎを聞き駆けつけて来てくれましたので、圭子は、
痛いのを我慢して、大丈夫ですからと、痛いアゴを押さえて鏡の前に座り、
リオも、マネージャーもADの方も心配そうに圭子の顔を見ておりました。
大丈夫だから、心配しないで!と言い圭子は、恐る恐る鏡を見ました。
怖いいよ!\(◎o◎)/!ウワァ~~~~(;O;)つづく
by 麻里圭子 (2007-09-23 20:08) 

麻里圭子

圭子は、鏡を見るまでは、冷静な気持ちでいましたが、自分の顔を見て、
ド・ビックリ致しました。左の頬は、かすり傷に血がニジンで頬は、薄汚れて
おりました。右手で、痛いアゴを抑えておりました、手を離すと、アゴから血が、流れて来ました。圭子は、その流れ落ちる血を、見て、まるで子供が、
泣く様に、ワァ~ン~!と誰はばかる事なく、おお泣きしてしまいました。
リオのメンバー、マネージャーが、一成に、子供をあやす様に「ヨシヨシ」と
慰めてくれましたが、この事を聴き、「ミュジックフェア」のディレクターが、化粧室に飛んで来てくださいました。「大丈夫!?」圭子は、泣きながら、大丈夫です!と答えました。メークさんに、ディレクターが、お願いしてくださり、傷を分からない様に、短時間で、メークを直す事に成りました。時間通り
本番のVTR撮りは、始まりましたが、一度泣いてしまった顔は、若くても、元気でも、元の顔には、短時間では、とても戻る事が、出来ない状態でした!絶対絶命!!(;O;)神様助けて~!!
by 麻里圭子 (2007-09-24 21:46) 

麻里圭子

VTR撮りは終わり、担当ディレクターとスタッフ皆様とVTRを見せて頂きましたが、左からのアップは、全く無く傷ついた顔は、写りませんでしたが、右側から写された圭子の顔からは、何時もの様な、笑顔が消え全く元気の無い「月影のランデブー」に成ってしまいました。圭子は、皆様に「御心配お掛けいたしました。」とご挨拶して、その日は、真っ直ぐ家に帰りました。
そして、大切な番組に、自ら招いた、階段落ちを反省して、とにかく、次の日が、お休み以外の夜は、仕事が終ったら、直家に帰り、睡眠を取る事を大事にする様に成りました。お話が少し前後していると思いますが、この
「ミュジックフェア」の放送日を境に、レコードの売り上げが止まったのは、事実だったと思います。これは、神様が、圭子に最大の警告をしてくださった記念日です!!今でもアゴの傷が、1cm位、指で触ると何となく分かりますが、お蔭様で見えない処なので、気には、なりませんが忘れられない
出来事です!!・・・・裸足のままでのイントロのフルートは、横田年昭さん
が、スタジオで録音してくださいました。もちろん「裸足のままで」全て演奏を担当してくださいましたが、ファンの皆様は、気が付いていらっしゃいますか!?実は・・・・
by 麻里圭子 (2007-09-25 20:04) 

麻里圭子

当時、売れっ子フルート奏者のスタジオミュージシャンは、確か、薗田さんだったと思います。お名前は、忘れてしまいましたが、圭子の作品の中では、フルートを担当してくださったのは、薗田さんでした。「裸足のままで」
はイントロから全て、フルートは、横田年昭と薗田さんと、お二人で演奏してくださいました。とても贅沢な、レコーディングでした!!

実は、お昼のゴールデンショーの時は、もちろんリオアルマと一緒に、歌っておりましたが、圭子のレギュラー番組のニューヒットスコープの番組の中では、圭子一人で、「裸足のままで」をVTR撮りをした事も有りました。この辺が、事務所が、お互いに別と云う事が、グループで在っても、麻里圭子は、単独1人でこの時期に「麻里圭子 フォークソングを歌う」が、発売されたり、とにかくファンの方も、一体どうなっているのかと、戸惑ったと思います。
まず、「裸足のままで」は、深夜のTV・ラジオで、CMスポットを沢山入れました!!そして、お昼のゴールデンショーに出演致しました。その結果3万8千枚レコードは、プレスされました。これは全て実数です。交渉は、15万枚ぐらいに成っていたと思います。そして最後のキャンペーンに圭子とヨコちゃんとリオアルマは、東京から名古屋・大阪までの、東名高速道路を使い
交通安全キャンペーンに出る事に、なりました。このときの週刊誌のグラビア写真を明日アップしたいと思っておりますので、お楽しみに!!(^_-)-☆
by 麻里圭子 (2007-09-27 18:17) 

sig

こんぱんは。
久しぶりに麻里圭子さんの「月影のランデブー」をYOUtubeで聴きました。張りのある素敵な歌声にうっとり・・・。そこで麻里さんのブログを訪れて、初めてこの記事を知りました。こんなお話が詳しく書かれていたのですね。名声の裏のいろいろな出来事。とても感動しました。
by sig (2011-08-23 19:32) 

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